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第86話 第二次世界大戦

2021年06月30日 バンコク便り

先の大戦下、この国は歴史の荒波を泳ぎ切り外交の手練手管を尽くし、東南アジアで唯一独立を守り通した。

現在もナコンナヨク県にあるチュラチョームクラオ陸軍士官学校は、その6名の卒業生が首相を務めているが、この用地は大戦中日本陸軍第37師団の駐屯基地であったのだという。この部隊は中国から転戦し、1944年12月より終戦まで当地に駐屯した。年月の経過でその後のことは存じ上げないが、少なくとも1990年代前半までこの師団の元士官主導によるナコンナヨク県への寄贈行為が行われていたのは確かだ。私自身、業務上の関連があり当地の寺院境内に診療所を寄贈するセレモニーに参列した。これはタイ王室への後援として現国王陛下の妹君、シリントーン王女の名のもとに行われ、当然儀式には王女もいらした。失礼ながら記憶しているのは5月の40度を超す炎天下、スーツ姿で大汗をかきながら2時間以上王女のご来臨を待ち続けたこと、またこの席に元師団幹部のお嬢様で、当時日本航空バンコク支店に勤められていたH女史が着物姿で参列していらしたのだが、彼女の汗一つかかず凛とした立ち居振る舞いを拝見し、軍人のお家の出とはこういうものなのかと妙に感心させられたことだった。

また、タイで大戦の歴史を感じる場所と言えばご存知「戦場に架ける橋」のカンチャナブリだが、その史跡だけでは無くその橋が架かるクワイ川に沿ったリゾート・ホテルや多くの滝、さらに5時間ほど奥にあるミャンマー国境の街など、観光目的でも楽しめる地域なのでこれまで何度も訪れている。もちろんメインはその鉄橋であって、あの有名な映画での佇まいそのままの古式な橋を徒歩で渡ることもでき、列車に乗れば「リバー・クワイ・ブリッジ駅」から終点の「ナムトック駅」まで、泰緬鉄道そのものを辿れるのだ。途中には切り立った崖に張り付いた頼りない木橋をギシギシいわせながら超えるスリリングなルート「タム・クラセー桟道橋」もあり、これが工期短縮の為に斜面を切り崩す工程を省いたためと聞けば納得させられてしまう。何しろあの橋自体、連合軍による空爆を想定した設計となっており、当時はボルトを挿したのみで固定せず、爆撃を受ければすぐバラバラに分解されまたすぐに組み立てられるという、当時の日本の技術を最高に駆使しあの険しいジャングルにレールを敷きながら資材を後方から運び、兵糧が徹底的に不足している状況でインド亜大陸入り口であるインパールへの行軍を急いだその意思を実感させられる。もちろんあの戦争遂行自体が馬鹿げた決断であったことをその結末が証明しているが、一般に言われている連合軍捕虜や現地で徴用した労働者計35万人に対する拷問的使役の残酷さばかりではなく、無謀な目的を遂げようとする日本人のクレイジーさの証明としては軌を一にしている。終点「ナムトック駅」近くにある大きな滝、ナムトックとは滝のことだが、この傍らには泰緬鉄道のレール上に蒸気機関車が残されている。周囲の地形を見回せば、そこが山に切通しを堀って通した線路だと容易に理解できる。つるはしと人力だけでタイからミャンマーへ貫いたのだ。

鉄橋からほど近い「戦争博物館」へも必ず立ち寄ることになる。以前は竹葺きの暗い小屋の様な建物に、世にもおどろおどろしい日本兵による残虐行為を告発するのが目的の様な展示物が殆どだった。やせ細りマラリアに罹った捕虜たちを労働に駆り立て、粗末な寝床に押し込めていたのが日本人だ、と責められている気分になったものだった。しかしその後、新しい建物が建てられ完全にリニューアルした後では、ソフトに大戦史を展示したものになった。対日本外交に配慮したものなのだろう。

しかしそこから「連合軍墓地」へ移動すると、我々はどうしても委縮せざるを得ない。素晴らしく整備された大きな洋式の墓地に約7,000体が埋葬されており、次々と西洋人の団体が大型バスで乗り付ける。この状況で胸を張り闊歩できるほど無神経にはなれない。ただし、ここに眠るのは1939年から1945年にかけて亡くなった人たちだということなので、泰緬鉄道工事の犠牲者だけでは無い。